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僕の青春、HANOI ROCKS

こんばんは。みなさんもう春ですね。
こういう暖かい季節は、(夕方なんて特に)何故だかノスタルジックな気分になります。
そんなときに聞きたくなるのがご存知、ハノイ・ロックスです。
 
というのも僕は最近ハノイ・ロックスばかりを聞いている。
しかし、僕の周りでハノイ・ロックスを好きな人なんて一人も見たことないし、
そもそも知っていたとしても、名前だけ聞いたことあるといった感じでしょう。
ハノイは見た目やイメージばかりが先行していて、あまり音楽では評価されていない気がする。
評価されていたとしても、あんな身形でも曲は意外とポップで爽やかってくらいのところで止まっている。
しかし、ハノイ・ロックスのアンディ・マッコイが作る曲たちは、
曲を作るということに関してすごく勉強になるし、こりゃ適わねえわってなる。
これが何で僕の曲じゃないんだってなる。メロディを作る天才だが、メロディをつなげる天才でもある。
外国のロックではなかなか見られないような複雑なコード進行で転調しまくりなんだ。
僕はずっとアンディ・マッコイの曲は昭和歌謡っぽいなと思っていたがどうやらそういうわけでも無さそう。
もしかしたらJPOP的なのかもしれないと最近思った。それも90年代初期の頃の。
僕が小学校にあがる前くらいのだ。それだからか、とてもノスタルジックに感じる。
トラジディみたいなマイナー調の曲や、マリブビーチみたいなロックンロールな曲もいいが、
僕が一番好きなのは、11th street kidzやIce cream summerみたいな、
暖かい日差しの中、爽やかな風が吹き抜けるような曲たちが最高だ。
 
 
僕がハノイに出会ったのは中学生一年の時だ。親父が好きだったから、僕も聞いたらちょー良かった。
今思うと親父は、クイーンのボヘミアンラプソディが好きだった僕が、
何故ハノイロックスに反応したのか不思議だったろう。
それは僕にも分からない。今でもだ。ただ最初はあのルックスが良かった。曲もキャッチーだったし。
しかし、それが10年以上経って色んな音楽を聞いてきた今でも、
一番好きってぐらいに好きなのは意外に思う。
 
僕はマイケルモンローが穿いているピチピチの黒の革パンに憧れていた。
中学の文化祭の時、ジャンピンジャックフラッシュを演奏してその時、
学生服のズボンをホチキスで止めてピチピチにしたのを覚えている。
そのせいで卒業アルバムに載らなかったのも覚えている。確かに俺らが一番だった。
俺らが一番盛り上がったし、生徒のみならず先生も唸らせた。
だが卒業アルバムに載らなかったのは、マイケル・モンローに憧れたせいだ。
 
また中学でのハノイ・ロックス・エピソードでいうと、僕は絵を描くのが好きで、
教科書やノートや配られたプリントに落書きをしていた。
小学校の頃、落書きしすぎたせいで、先生にそのプリントをクラスのみんなの前で披露され、
笑いモノにされた記憶がある。子どもながらにそんなやり方ありかよって思った。
しかし、僕の筆は止まらなかった。どんどん創作意欲が沸いてくるぞ状態だった。
僕はハノイ・ロックスが好きで、1stのジャケ写であり、ハノイのシンボル的にもなっている、
薔薇の花を描く練習をしていた。
英語のプリントに、薔薇の花を書いてHANOI ROCKSというロゴを入れたら、
そのプリントが返ってきたときに「白夜のトラジディですね」と書いてあった。
その先生とは、しばらく、僕がミュージシャンの似顔絵を書いて、
先生がそれを答えるという謎のコミュニケーションがあった。
あとまた英語の時間だけど、外国人の先生が期間限定で来て、
その先生にプリントに自己紹介を書いて渡すという授業があって、
そこに「I love HANOI ROCKS」と書いたら、
その先生から「Hanoi Rocks is my most favorite band!!!」と書いてあった(確かそういった意味の文)。
僕はその当時ビックリしたが「そうなんだー」くらいにしか思わなかった。
しかし、今思い出すと「うっわー、マジかよ!!!!???」と思う。確かに信じられないことだ。
その先生にしても、仕事で日本の中学校に行ったら、
そこの生徒の一人が自分が大好きなバンドHANOI ROCKSファンとか。
それは本当に貴重な体験だったと思う。
今、バンドを始めて、いろいろなロックが好きな人がこんなにたくさんいるのに、
HANOI ROCKS好きな人とは会ったことがないのだから。
 
 
 
ハノイロックスは1980年から活動を開始して、1985年に解散している。
 

http://youtu.be/gpttRXw6nGc
 
最初は北国フィンランドのヘルシンキから始まった。
マイケル・モンローは15の頃にバンドを始め、
17の頃に親から「学校に行かないなら家を出て行け」といわれ、バンドがやりたいから家出する。
アンディ・マッコイはいろいろなバンドで活動し、
ハノイロックス結成時にはすでに少しは名前が売れていた。
ナスティ・スイサイドは17の頃にすでに飲んだくれで、
一時期アンディとバンドをやったことのあったギタリスト。
サミ・ヤッファも同じく、一時期アンディとパンクバンドをやったことのあったベーシストだった。
こいつら17歳のクソガキどもはこれから栄光と苦悩の波乱万丈なバンド生活を送ることになる。
 
マイケルはアンディのファンであったが、一緒にバンドをやる機会にめぐり合えず、
めぐり合えたとしてもアンディがヤバ過ぎるから、すぐにポシャるという感じだった。
それからマイケルは、アンディからナスティを紹介され、一緒にバンドを組む。
マイケルとナスティと他三人で『ハノイ・ロックス』をスタートさせる。
一方アンディは人気パンクバンドに加入しサミと出会う。
ある時、ハノイ・ロックスのライブを見たアンディが「最高ずら!やっぱ一緒にやるずらー!」と強引に加入する。
その時に他のメンバー三人はアンディ・マッコイとかいうヤベえヤツがが入ったから抜ける。
というのは冗談で音楽性の違いで抜けた。
アンディはまずベーシストの目星はついていた。(マイケルの友達でもある)とあるパンクバンドのベーシストだけど、アンディはやっぱヤべえから、そいつの番号をどっかに無くして連絡が取れなくなってしまう。
仕方なく、たまたま番号を知っていただけという理由でサミが加入する。
で、まあドラムはサポートで昔からの知り合いの地元のヤツ、ジップ・カジノを入れる。
 
でも、全員家出同然で働いても無いから金が無い。
アンディはやべえから女の家に転がり込んで何とか暮らしていたけど、
マイケル、ナスティ、サミはマジで洒落にならないくらい知り合いもいねえからホームレスになった。
 
練習は、地下鉄の駅の中だった。
終電後、閉まる直前に機材を持って忍び込み、職員が帰るのを隠れて待つ。
そして誰もいなくなったら、町の電力を使って、朝まで爆音で練習していたらしい。
それで朝が来ると、また公園に行って寝るだけの生活であった。
万引きや物乞いしたり、たまにアメリカ人旅行客のフリをして女の家に泊めてもらい、半年生活する。
アンディは相変わらずやばくて、ガールフレンドと優雅に暮らしていた。
そんな可愛そうな他のメンバーたちを見たガールフレンドは両親に相談し、彼らのためにレゴでつくったみたいな建物を借りてもらい、そこに住むことができ、半年間続いたホームレス生活にピリオドを打った。
 
そういったヤべえバンド『ハノイ・ロックス』は数々のライブをこなし、次第に注目を集めていき、
1stアルバム、シングルを経て、2ndアルバムを発売。それがなぜかスカンジナビアで大ヒット!
そこからイギリスでも取り上げられるようになる。
ロンドンに渡り、数々のメジャーレーベルからオファーが来るが、
その条件がどれも「ヘヴィ・メタルかディスコ・ポップにしろ」というものだった。
そして、ロンドンでLords of new churchの前座をやったときに運命の出会いがあった。
ライブ後、楽屋にやけにテンションの高いやつが押しかけてきて、
「おまえらって最高にナウいじゃん!でもドラムがチョベリバだよねー・・・」と言ってきた。
メンバーはただの酔っ払いだと思い相手にしなかったが、そいつが後にドラムを担当するラズルだった。
 
その後も、ジョニーサンダースの前座をやったときも、ライブ後にそいつは楽屋に来て、
「ドラムの野郎はどこだ!ヤツの足をへし折ってくれるわァー!」とヤバイテンションだった。
そんな最悪な印象の出会いだが、段々と彼らは仲良くなっていき、
サポートドラムだったジップは何か微妙に気まずくなりバンドを脱退する。
そしてラズルはオーディションを経て念願のハノイ・ロックスに加入する。
しかし、ラズルのドラムは別に上手くないと思う。
ジップの方がタイトなリズムを叩いていてクールだったと思うが、ただヤツのノリが最高だったんだろう。
 
それからここ日本でもアルバムが発売される。
一重でうっすい顔をした日本人の女は、美しい白人に憧れを持っている面食いだから、
ハノイはそういった意味で大成功する。レッツゴーヤングにも出演する。
ハノイはアジアツアーを行う。ハノイはインドのニューデリーでライブをやった初のロックバンドとなった。
インドの盛り上がりは一番だったらしい。
それからイスラエルにも行ったりと世界中を飛び回る。
そして4枚目の『Back to mystery city』が大ヒットし、
CBSインターナショナルというメジャーレーベルと契約し、新人では破格の20万ドルで契約。
しかもアルバムの音楽性の自由を守るという、音楽性の規制を受け付けないという条件つきでだ。
これほど待遇の良い契約も珍しかったんじゃないでしょうか?
ハノイ・ロックスは着々とスター街道を歩み始めていた。
 

http://youtu.be/4d0v2Vjf6rE
 
そして念願のアメリカデビューが決まる。
東海岸から始まる全米クラブサーキットだ。
メンバー全員が、今までで最高のツアーと語るほど熱狂的なものとなった。
 
そのツアー中、マイケルはライブで足を骨折する。
高いところから飛び降りようとしたその時、
丁度そこへノコノコ間抜け面下げたアンディがやってきて衝突したのであった。
でもこの頃から、ただの純粋な少年であったマイケルは既にやべえヤツになりつつあり、
骨折をものともせずツアーを続行。
しかし、当然ケガは悪化し、ドクターストップが掛かり以降の予定がキャンセルされる。
 
この「マイケルとアンディの衝突」という事故は物理的なものであったが、
これからの二人の関係性を暗喩しているようで印象的だと思う。
 
ライブがキャンセルになったってんで、以降の予定をプロモーション活動に切り替える。
その間に、正真正銘にヤバいヤツらMotley Crueと出会い、意気投合する。
ハノイ・ロックスのヤンチャさは、モトリークルーに比べたら可愛いものだった。
所詮田舎から出てきた少年たちだ。モトリークルーみたいなチンピラとは違った。
 
ケガで療養中のマイケルを除いたハノイ・ロックスのメンバー四人と、モトリー・クルーのメンバーは、
モトリーのドラマー、トミー・リーの家のホームパーティに招待された。
ラズルダズル(どんちゃん騒ぎ)なパーティとなり、
ヴィンス・ニール(モトリーのボーカル)とラズル(ハノイのドラム)は買出しの為にスポーツカーで出掛ける。
ヴィンスはチンピラだから、右手にハンドル、左手にビール瓶という状態だ。
ヴィンスの運転する車はコントロールを失い、対向車線へはみ出していく・・・
そしてそこで対向車と正面衝突し、他にもう一台車を巻き添えにした大事故となった。
巻き添えになった車の運転手は体が麻痺した重症に、そして対向車の運転手は死亡。
そしてヴィンスの隣に乗っていたラズルも死亡した。
ヴィンスはその悲惨な事故現場で車を降りて「Everything's OK(全然大丈夫)」と言い放つ。
夢のアメリカツアーは悪夢となったのであった。
 

http://youtu.be/c3AkcL11YKo
 
ラズルは、バンドのムードメーカーであり、偶然なのか彼が加入した途端にバンドは成功していった。
サミはそんなラズルの追悼ライブを最後にバンドを脱退する。
それからバンドは空中分解した。
アンディは休暇を取りヘロイン漬けの日々に。ナスティも休暇を取りアルコール中毒に。
マイケルとナスティは新しいメンバーと新しい曲を作ろうとするが、上手く行かない。
ライブをするもバンドはどんどん最悪な状況に向かってゆく。
マイケルは「僕はもうバンドをやめる。だからもうハノイロックスという名前は二度と使わないで欲しい」とマネージャーに言い残し、ハノイ・ロックスは正式に解散した。
1980-1985年。たった五年という短い時間だったが、
ホームレス同然の少年たちは、瞬く間にロックスターになり、故郷を離れ、夢のアメリカにたどり着いた。
 
ここでハノイ・ロックス第一章は終わる。
 
 
 
その後、マイケル、アンディは別々に音楽活動を始める。
マイケルはソロとして、アンディは数々のバンドを組んだ。
アンディは金銭的に成功を収めなかったが彼のソロアルバムの一つ『Building On Tradditional』は名作だ。
マイケルはとある若者と出会う。それはアクセル・ローズという男だ。Guns And Rosesのアクセルだ。
初期のガンズのビデオを見れば分かるが、アクセルはマイケル・モンローの分かりやすいフォロワーであった。
マイケルのミュージックビデオやライブにアクセルが飛び入り参加したり、逆にガンズのライブにゲストでマイケルが出たりした。
また、アクセルは自身のレーベルから、アメリカでは未発売だったハノイ・ロックスのアルバムを、出している。
マイケルはソロ活動もしたが、バンド活動もした。
中でも1992年に結成されたエルサレム・スリムというバンドが一番注目された。
ハッキリ言ってマイケルのソロは、(ハノイ・ロックスからの期待も大きかったろうが)、
微妙なハードロックで、泣かず飛ばずの評価であった。僕もあまり聞いてない。
そんなマイケルが再起をかけて結成したバンド、エルサレム・スリム。
マイケルと、ビリー・アイドルの横でギターを弾いていたスティーヴ・スティーヴンスが組んだのだ。
メディアやレコード会社やファンは、このスターとスターのタッグに期待を寄せていたが、
このバンド・・・結局組んでスグに解散してしまう。
はじめは意気投合した彼らだが、
スティーヴ・スティーヴンスはバンドが始まったと同時期に、他のボーカリストからも誘いが来る。
スティーヴは急にそっちにやる気になり、エルサレム・スリムを脱退、バンドは解散したのだ。
そのスティーヴがマイケルではなく一緒にやろうと選んだのが、
マイケルにとって悪名高き因縁のあの男、ヴィンス・ニールであった。
 
マイケルはもうショックだよな。マイケルは未だにヴィンスのことは良く思っていないそうだ。
 
その後も、マイケルはハノイロックスの時に掴みかけた栄光を再び手にすることは無かった。
勿論アンディもそうだ。他のメンバーだってそうだ。
ショックは受けるが何度でも立ち上がる純粋なポジティブ野郎、マイケル・モンローはソロ活動を続ける。
 
ハノイ・ロックスの地元であるフィンランドをはじめとした北欧では90年代に入り、
やっとヘヴィメタルが流行りだして北欧メタルが誕生した。
しかし90年代も半ばに差し掛かると、そのブームも少しは下火になっていき、
とあるメタルバンドではないロックバンドが注目され始める。
それがスウェーデンのバックヤード・ベイビーズというバンドだ。
バックヤード・ベイビーズは、バッドボーイズロックンロールバンド。
それが大ヒットしたことにより、フィンランドでもそういったバンドたちが再び出始めた。
そして、そのオリジナルといわれた不遇のロックンローラー、
マイケル・モンローが注目され始めて行った。
 
しかし、マイケル・モンロー、あなたはどうしてそんな不幸な運命を辿るのか・・・
2001年、最愛の妻を亡くす。この死因については調べたけど分からなかった。
誰か詳しい人がいたら教えてほしい。
 
マイケル・モンローはこの頃からストレートエッジを貫いている。
一切、酒は飲まないし、ドラッグもやらない。体調管理には最善の注意を払っている。
また車にも乗らなくて、自転車にしか乗らない。
酒、ドラッグ、車・・・
彼から愛するものを奪ったそれらの世話には、絶対にならないと誓ったのだ。
 
 
プライベートでは悲惨な彼であったが、彼は次第に再注目されていった。
 

http://youtu.be/RKdAO4M7Mf8
 
そして2002年にハノイ・ロックスは再結成を果たす。
この時、僕は確か中2とかだった。リアルタイムでハノイロックスのCDを買えたのだ。
しかし、蓋を開けてみると、僕が想像していた、あのヤンチャだけど純粋で優しい太陽のようなロックンロールは無かった。
ハノイはこんなハードロックじゃねーよ!と思ってあまり好きになれなかった。
マイケル・モンローの顔も昔みたいな美人じゃなくてババアーみてえになってるじゃねえか。
まあそれは年だからしょうがないかと思ったが、僕は不思議でしょうがなかった。
マイケルモンローはそんなメチャクチャ目が大きい顔ではなかった。目よりも大きい口の方が印象的であった。
でも何か目がギョロ目の西川きよしみたいで正直しんどかった。
年取って老けたからといって、こんな顔になるのか?不自然だったから不思議だった。
僕はきっと整形手術をしてこういう目のでかい顔になったのだろうと思っていた。
 
しかし、調べてみるとそれは違った。
彼はバセドウ病と呼ばれる病気にかかっていたのだ。
バセドウ病の詳しい説明は省くが、症状の一部には、精神的に不安定になったり、手が震えたりする。
また、あらゆる臓器が全力疾走している状態になり大量のエネルギーを消費する為、
食欲が異常に増すが、代謝も異常に高い為に、太らない(太る場合もある)。
ライブパフォーマーである彼にとってこれはツライ症状であろう。
そして、僕が不思議に思っていた彼の目の答えがこれであった。
眼球突出が顕著になるのだ。
 
僕はその大きく突出してしまった目をサングラスなどで隠さずに(たまにしてるときもあるが)、
思いっきり目を開いて歌う彼に、ベタにも感動してしまった。
 
なんというか、彼はとても過酷な運命を歩いているような気がする。
倒れても、倒れても、何度も立ち上がる彼に、僕は泣けるぜ。
 
そして、再結成したハノイ・ロックスであったが、
やはり違和感を感じている人は僕だけではなく、それは誰もが感じていることであった。
再結成後の2ndも微妙だった。そして、3rd『Street Poetry』が発売する。
この3rdがやばかった。ハノイ・ロックスとはこれであった。
メンバーも良い感じに馴染んできて、第一期のメンバーとはまた違った魅力があった。
こちらメンバーは海賊だった。こんなヤツら、海賊にしか見えねーぞ!って感じだった。
やはり、どんな批評かも、どんなファンも、このアルバムを聞いたすべての人は、
その完成度に歓喜し、次のアルバムを楽しみに待った。
 
 
しかし、ハノイ・ロックスはまた解散を発表する。
「このバンドで出来ることは成し遂げられた」と発表され、解散してしまう。
 

http://youtu.be/b7YOUM0dLq4
 
先日、解散ライブである『Buried Alive』の映像をやっと見た。
僕はもう思わずちょびっとだが泣いてしまったよ。
そこには仲の良さそうなメンバーが写っており、演奏の出来もパフォーマンスも、
今まで見たハノイのライブ映像の中で、一番最高だった。
しかし、マイケルとアンディとの間に少し距離感が感じられた。
アンディはやべえヤツだったんだ。
いつもそうだが、栄光を掴みかけたときにダメになる。
 

http://youtu.be/XhAbtZXu2RU
 
2000年以降のマイケル・モンローのソロ作品は最高だ。
マイケルがマイケル自身の音楽を見つけられた感じだ。
 
また、最近イマイチ好きになれなかった1stを聞いたがあれ、ムチャクチャよかった。
僕は過去の幻にとらわれて、彼らの新しい音楽を聞くことが出来ていなかったんだ。
 
これから、マイケル・モンローがどういう活動していくのか楽しみだし、アンディもそうだ。
俺の永遠の憧れ、ハノイ・ロックスよ、永遠に。
 
そして、この僕も自分の音楽を見つけたい。
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いいですよね

私も hanoirocks 大好きです
結構 おっさんなんですが
ハノイは
高校あたりから聞いています
未だに色褪せないし
今日も 今現在 聞いていますが
カッコいい曲が多く 自分的に どの曲もメロディーラインが素晴らしく
色褪せないどころか
全く 飽きがこないです
自分の回りにも同じ音楽的趣味が合う人が全くいなくて
私は おかしいのかなと思う時がありました
でも 未だに ハノイが大好きです
彼らの メロディーラインは最高だと思います
本日 あなたの記事をみて
私と多少なりとも
Hanoirocks ファンに出会えた事を
非常に嬉しく思います
ありがとうございました

私もファン

よい文章で楽しく読ませて頂きました!
私は40代後半のおっさんでハノイは30年以上聞いてますが、全く飽きないですね!
確かに回りも、ハノイ聞くって人はいませんね。時々、数年に一度出会うくらいです。
マイケルモンローにはこれからも頑張って欲しいものです。

なんとなく足跡を残したくてコメかきましたよ!
では。

  • おっさん
  • 2015/01/15(Thu)07:55:21
  • 編集

無題

があらんさん、コメントありがとうございます。
 
ハノイロックスのあのクサい感じがすごい好きです。 日本でもルックスから女性から人気あったみたいですが、ハノイロックスの肝はやっぱアンディの作るメロディですよね。
メロディもさることながら、何かバンド自体が切ないんですよね。
  • ベルロウ
  • 2015/03/04(Wed)02:00:27
  • 編集

無題

おっさんさん、コメントありがとうございます。
 
マイケル・モンローどうやら今新しいアルバム作っているみたいで楽しみです。
彼のポジティブなエネルギーにはいつも元気付けられます。
  • ベルロウ
  • 2015/03/04(Wed)02:02:30
  • 編集

ワシも(*^◯^*)

ワシもハノイファンです!20年以上前からです。リアルタイムではありませんがね。
大学の頃、好きすぎて軽音楽部に入り、コピーバンドを作り、ラズル好きなワシはドラマーを、やりました!
コピった曲は、マリブビーチ、タクシードライバー、オリエンタルビートでした。


なんでみんなモンちゃん!アンディ!と騒ぐんでしょうね(´Д` )
もちろん2人はバンドの花形ですが、ワシはキュートで愛嬌もののラズルが大好きでした(੭ु ˃̶͈̀ ω ˂̶͈́)੭ु⁾⁾
  • あき
  • 2015/03/29(Sun)22:24:47
  • 編集

うん いい とても

もう20年以上前かな 友達にZIGGYを進められた時と同時かなハノイを知ったのはとてもなつかしい涙
  • 青春でした
  • 2015/08/16(Sun)11:13:05
  • 編集

大好き

私もデビューした時から大好き!
今でも一番好きです♡
色褪せない唯一無二のロックバンドです。
マイケル美しすぎです・・・
記事、ありがとうございます♡
  • no name
  • 2015/11/19(Thu)18:38:56
  • 編集

懐かしい

こんなに若い方でここまでのファンがいたことに驚きました!
私は40代後半です。ハノイロックスのコンサートには初来日の時、1度だけ行きました。最高でした!
前から3列目で、マイケルの汗も飛んできたのを覚えてます^^;
「トラジディ」が好きでバンドでコピー(私はベース)したくらいです。
当時、モトリークルーも大ファンでしたので、ラズルの事故の時はかなりショックでした。
お父様の影響でハノイロックスと出会ったんですね、
お父様が好きなクイーン。
1982年の高校生の時に西武球場でのコンサートに行きました。
もしかして、お父様も行ってたりして?^^;
ハノイロックス、また聴いてみたくなりました!
ありがとう!
  • ハノイ子
  • 2015/12/05(Sat)22:31:13
  • 編集

無題

私は、高校生の時、大好きだった先輩の影響でハノイ好きになりました 先輩は、バンドを組んでいて、長髪でメチャメチャカッコよくギターを弾いていて、コピーしてる曲が最高にカッコよくて‥ 誰のなんて曲かと聞いたら、ハノイロックスのトラジディと教えてくれました。
それから、ハノイの曲を聴き漁って、セクシーなマイケルモンローに夢中になったものです。
‥30年前の高校時代の思い出
思い出させてくれて、ありがとうございます
  • no name
  • 2017/02/03(Fri)21:30:16
  • 編集

リアルタイム

東京でライブに1度だけ行きましたよ
東京厚生年金会館?知名度の引くバンドのライブにしてはかなり会場が広くて、私は1階席の中央くらいらでしたが、空席がかなりありました、それなのに2階席に人がいて、?だから、マイケルは何度も二階席に向かって、降りておいでよと声をかけていました
なつかしい思い出です
  • ジンジン
  • 2017/08/26(Sat)11:18:43
  • 編集

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プロフィール

HN:
水野ベルロウ
年齢:
35
HP:
性別:
男性
誕生日:
1989/01/30
自己紹介:
水野 ベルロウ(本名は水野巧郎 , 1989年 1月30日-)
 
サックスを吹いたり、歌を歌ったりする。
ドロロニカというバンドをやっていた。
グラムロックから始まり昭和歌謡、ワールドミュージックなどをよく聞く。

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